連載(1) トイレ協会はこうして始まった

運営委員/(株)ダイナックス都市環境研究所代表取締役会長 山本耕平

はじめに-連載にあたって
私が日本トイレ協会の設立にかかわり、事務局長を務めたのは95年までの約10年間。その後しばらくしてトイレ協会の活動からは離れてしまった。その事情はいろいろあるが、2013年に高橋志保彦氏が会長になって会員として復帰した。したがって企画の趣旨である「これまでの協会」については、発足当初から10年間の出来事を記すことしかできない。
しかし40年近く前にトイレ協会を設立した背景や、初期の10年間はまさに「トイレ革命」の黎明期であり、私の記憶にはたくさんのエピソードがまだ残っている。
当時からおつきあいのある方々もおられるし、私の「トイレ協会空白の10年」の間に、新生トイレ協会の発足にご苦労された方々もおられる。その時代の話は、あらためて書いていただくとして、私はトイレ協会のルーツと初期の活動のことを書くこととする。なにごとも事始めの時期は面白いことが多いので、書き始めるとどんどんボリュームが増えてくる。したがって本稿は連載という形になることをあらかじめお断りし、ご笑覧いただければ幸いである。

それは空き缶のポイ捨て問題から始まった
日本トイレ協会発足の発端は、「トイレットピアの会」というトイレの話題を肴にお酒を楽しむ会である。話はまずそこから始めたいと思うが、きわめて個人的なことから書き始めることをご容赦いただきたい。
私は1977年に早稲田大学を卒業して、神戸市役所に入庁した。大学では地方自治のゼミに所属し、杉並区高井戸の清掃工場建設と江東区のごみ埋め立て処分場をめぐる「東京ごみ戦争」をテーマに卒業論文を書いた。そのおかげ?で、環境局というごみや屎尿を担当する部署に配属された。ごみ問題は東京だけでなく全国で深刻な社会問題となっており、自販機が急増して空き缶のポイ捨てが多くの観光地で問題となっていた。その代表格が京都である。
途中の経緯は省くが、1983年に市役所を退職して、ドゥタンク・ダイナックスという小さなシンクタンクに転職した。現在の会社の前身にあたる。私を東京に誘ったのは代表の故田中栄治さん。実はこの田中さんが実質的なトイレ協会の生みの親である。
さてドゥタンク・ダイナックス(環境問題研究部)は空き缶等のポイ捨て対策に取り組んでいて、私も観光地の調査を担当した。主なフィールドは「空き缶条例」の制定を目指していた京都で、ディスカバージャパンでブームになっていた大原や、嵐山、その上流の清滝、嵯峨野などに足を運んで観光客の入り込み状況やポイ捨ての実態、ポイ捨て防止のための社会実験などを行っていた。
そのときに空き缶より気になったのがトイレである。とても国際観光都市にはふさわしいとは言えない状況で、バスターミナルの数少ないトイレには「バス利用者以外は使用禁止」という張り紙には、加えて「利用者以外が使用している場合はやめさせます」という趣旨の文言が書き添えてある!清滝では河原でバーベキューを楽しむ人が集まるが、トイレは河原のはるか上にぽつんと佇むだけである。あるとき車イスの人たちが河原に下りてきて、いきなりテントを張るのである。まずトイレの準備からだという。
こういう場面を他の観光地でもしばしば目にする中で、トイレをなんとかせねば・・という気持ちが大きくなってきた。

「サロン集」とトイレットピアの会
さて、かつて西新橋のビルの地下に「サロン集」というサラリーマンのたまり場があった。田中栄治さんが仕掛け人で、みんなで出資してつくった店である。ここでは毎晩いろいろな会があり、うまい酒と料理、面白いネタで談論風発する「サロン」である。私は「ゴミ二ティ」というごみ問題をネタにした会の世話人をしており、都市問題をネタにした「トシコロジー」、日本酒ブームの先駆けとなった「幻の日本酒を飲む会」、「流行歌どこまで聞ける会」、哲学と宗教をネタにした「ボンズの会」等々たくさんの会があった。たまにはジャズのセッションが行われ、大人の遊び場であり、今ならリアルSNSというところか。霞ヶ関の官僚もいたし、メンバーからは国会議員になって大臣になった人もいた。
サロン集はいろいろな事業、活動のインキュベーションの場となっており、私たちも新しいテーマに取り組むときは、サロンで関心ある人たちに声をかけて会を持つことから始めた。(ちなみに公務員時代に神戸や大阪でサロンのまねごとを始めたことが、転職のきっかけである。)
ある日、田中さんから「山本君、トイレやらない?」と言われ、サロン集で「トイレットピア研究会」(のちにトイレットピアの会)を立ち上げることとした。1984年の春のことだったと記憶している。私がトイレ問題に関わることになったきっかけである。最初のメンバーとしてサロンの常連の人たちや、身近におつきあいのあったいろいろな分野の専門家に声をかけた。そのうちにマスコミ、官僚、医者、企業などいろいろな人が集まるようになった(高橋前会長、小林会長、横浜国大の小滝先生、レンタルのニッケン社長と寅太郎氏、INAX社長の伊那輝三氏、心療内科の開業医だった鴨下一郎元環境大臣など、錚々たる顔ぶれ)。トイレを肴に酒を飲むという、風変わりな会であったが、好事家の集まりではなくトイレを社会問題、都市問題としてとりあげた会は珍しく、またトイレを切り口に多様な領域の議論ができることも楽しかった。

NHKがトイレをニュースでとりあげた!
その頃はたいていの国ではトイレの話題はタブーだった。日本ではタブーというほどではなかったものの、トイレをネタにする「サロン」はマスコミの注目を集めたようだ。
トイレットピアの会のネタは主に公共トイレで、自治体の管理する公衆トイレや駅、高速道路などの公共的なトイレを話題にした。メンバーがいろいろなトイレの写真や情報を持ち寄って、スライドを見ながらわいわいとやるところから始めた。すると意外にも建物の意匠に工夫を凝らしたトイレがぼちぼち登場していたのである。多摩ニュータウンの公園、横浜や名古屋、広島などの都市では特徴的な外観のトイレがつくられていた。私は全国の市と特別区にアンケートを行い、公衆トイレや公園のトイレが人口4500人に一つ程度あることを報告した。
悪評紛々だった国鉄(当時)のトイレも、現場ではいろいろな努力が行われていた。津田沼駅や御茶ノ水駅、横浜駅にはトイレの内部に「壁画」を描いたトイレが登場した。国鉄は駅舎や列車のトイレをずいぶん研究していることも知った。
トイレのバリアフリーという概念に乏しかったが、高速道路に「車イストイレ」の設置を求めて「身障者運転協会」という団体をつくって活動している方と道路公団の関係者が、トイレットピア研究会で意見を交わすといった場面も生まれた。次第に「トイレ」が抱える課題が見えてきて、学際的、業際的なアプローチが重要だということを認識するようになった。
そんなことを知り合いの大手新聞の記者に熱く語っていると、大きく記事にしてくれた。別の大手紙も夕刊の3面にトイレの写真をずらっとならべた記事を掲載してくれた。ある日、NHKの報道記者がトイレとは関係ないことで取材に来た。インタビューのついでにトイレの話を熱く語ったらニュースにするという。しかしトイレの話題をどこの時間帯で放送するか、社内ではずいぶん議論があったそうだ。花形の「ニュースセンター9時」の予定が、晩飯時にトイレとは!ということで、朝のニュースの時間帯になった。朝飯時はいいらしい。大手紙とNHKによってトイレの話題はマスコミのタブーを打ち破り、それ以降は次々と様々なメディアで取り上げられることとなった。報道の影響は大きく、自衛隊の官舎に住む主婦の方からは、「官舎のトイレが汲み取りで、外国人を自宅に招くことができない。ぜひ頑張って日本のトイレをよくしてほしい」と、わざわざバザーを開いて収益をカンパしていただいたこともあった。
「ジャパンタイムス」にもトイレットピアの会が紹介された。英字紙にのると海外のメディアからの取材が来るのだ。イギリスBBCのスタジオ(TBSにあった)に行ってインタビューされたこともある。フランスの公共テレビAntenne 2からは、撮影クルーがやってきた。これがきっかけで、「日仏トイレフォーラム」を開催するはこびとなる。この話はまたあとで語ろう。

日本トイレ協会の設立
トイレットピアの会がメディアを賑わす中で、田中栄治さんからちゃんとした組織を作ろうという提案があった。いろいろな関係者にも相談して、「日本トイレ協会」を設立することを決めた。協会を名乗っても当初は会員もおらず、会費も財政的な基盤もまったくない。単に看板を掲げただけだ。
初代会長は西岡秀雄先生。代表幹事は田中栄治さん、私は事務局長だ。西岡先生は慶大名誉教授で当時は大田区立郷土博物館館長。西岡先生とのご縁も話しておかなければならない。たまたま本屋で国鉄トイレに絵を描いていた「トイレ壁画デザイナー」松永はつ子さんの著作「トイレットお嬢さん奮戦記」をみつけた。直ちに連絡を取って、トイレットピアの会のゲストスピーカーとしてお招きしたところ、彼女が社会人学生として在学していた慶応大学から西岡先生を連れてきてくれた。西岡先生とのご縁はここからである。
西岡先生はきわめてユニークな方で、専門は考古学。大学では人文地理を教えておられた。いろいろなものをコレクションされていて、世界のトイレットペーパーのコレクションもあった。世界中を旅しておられるのでトイレの話題は極めて豊富。そういうわけでトイレ協会会長をお願いした。西岡先生のことは稿をあらためて紹介したいが、秘書の谷さんといっしょに会にはほとんど足を運んでいただた。飲むのはウイスキーの水割りと決まっていた。
設立パーティのゲストとして、トイレ学の泰斗である李家正文(りのうえまさふみ)氏に講演をお願いしに行った。快諾していただいたが、パーティでは持ち時間を大幅に超過してお話しされるので、おそるおそるメモを差し出したら、すごい剣幕で叱られたことを思い出す。トイレを語る同士ができてうれしかったので、話が弾みすぎたと思っておきたい。
84年に私はダイナックス都市環境研究所を立ち上げ、田中さんは地域交流センターという組織を立ち上げていた。トイレ協会の事務局は地域交流センターに置くこととしたが、実質的には私の方で引き受けた。地域交流センターには上幸雄氏(のちに事務局長、日本トイレ研究所元代表)が出版などの仕事をしており、私とは二人三脚でトイレ協会を動かすこととなる。(ちなみに、ゴンドラの浅井幸子さんは地域交流センターのスタッフとして入社し、その後のトイレ協会にも関わるようになる。)
会社の女性社員が銀行で「日本トイレ協会さ~ん」と名前を呼ばれると、いっせいにみんなの視線が集まるので恥ずかしいと、よくぼやかれたことも懐かしい思い出である。ニュースレターをつくり、会員を募集しながら、「全国トイレシンポジウム」の企画をやった。メディアの取材は引きも切らず船出は順風満帆だった。ただしお金のことを除けば、である。
(つづく)

1984.12.2 毎日新聞記事
1985.5.24 産経新聞