運営委員/(株)ダイナックス都市環境研究所代表取締役会長 山本耕平
第4回シンポジウムは倉吉市-長寿社会計画とトイレ
鳥取県のちょうどまん中あたりに倉吉というまちがあります。江戸・明治期の白壁土蔵群の町並みで知られており、芸術や文化の香りがただようとてもすてきなまちです。すぐ近くに三朝温泉(みささおんせん)があり、観光地として知られています。
その倉吉市から私のところに部課長さん数名が来られて、全国トイレシンポジウムをぜひ開催してほしいという、誘致を受けました。伊東市でのシンポジウムに来られていたようで、市長からの厳命だということでした。第3回目は横浜市に決定していたので、4回目を倉吉で開催しようということになりました。
当時の牧田実夫市長は「水と緑と文化のまち」をかかげてさまざまなユニークな政策を打ち出していました。私がもっとも感銘をうけたのは「長寿社会計画」です。国が「ゴールドプラン」(高齢者保健福祉計画)を策定したのは1989年なので、それよりも早く高齢者福祉のマスタープランをつくっていました。余談ですが、「ゴールドプラン」は、当初は「シルバーシート」になぞらえて「シルバープラン」だったそうですが、「シルバーよりゴールドだ」とどなたかの鶴の一声で「ゴールドプラン」と命名されたそうです
この長寿社会計画のキモは、高齢者が安心して歩けるまちをめざすということでした。トイレはそのための必需のインフラだという観点から、白壁の町並みにふさわしいデザインのトイレと休憩所をつくったり、シンボルの打吹山公園で長く滞在できるようなトイレと休憩所の整備が進められていました。しかし「トイレにそんなお金をかけるのはけしからん」という反対意見もあり、高校の文化祭では「トイレ市長」を揶揄する展示が行われたり、当地のメディアも必ずしもよい施策として報道はしていなかったように思います。そこへトイレ協会が登場してトイレに注目が集まるようになったので、市長としては大いに面目を施したわけです。(今も倉吉市のHPでは、市の「みどころ」としてトイレが紹介されています。https://www.city.kurayoshi.lg.jp/gyousei/intro/00/1/)
トイレ列車が走り、市をあげたイベントに
倉吉市からは、経費負担も含めて市を挙げて取り組んでいただきました。シンポジウムのテーマは「トイレ文化と健康からのまちづくり」としましたが、テーマにこだわらずいろいろな企画を考えました。その一つが学校でのトイレ学習です。教育委員会に諮ってもらって、小学校、中学校のモデル校を選んで、先生方がつくったカリキュラムで実際の学習をするというものです。カリキュラムづくりには東京学芸大学の小澤紀美子先生にもご協力いただきました。一日だけの授業ではなく、事前のワークショップもふくめて、先生方にとっては負担の大きい取り組みでしたが、得るものも大きかったと思います。カリキュラムや授業の内容まで詳しく書くことはできませんので、関心のある方は、拙著「まちづくりにはトイレが大事」(96、北斗出版)に書いているのでご覧いただければと思います。
もう一つの大イベントとして、東京から倉吉まで「トイレ列車」を走らせました。1987年に国鉄が分割民営化されましたが、別会社になったJR東・西をまたいで走った最初の特別列車です。
国鉄は民営化の目に見える象徴として、トイレの改善から着手しました。山手線のトイレに初のチップトイレをつくるなど駅舎のトイレ改築を進めるとともに、既設のトイレの連結式小便器(飛沫が飛ぶ!)を陶器製の便器に変えたり、トイレットペーパーをつけるなど、いろいろな取り組みを進めました。駅のトイレがグッドトイレ10に選ばれると、JR東日本ではトイレの改善が社会に評価されたというアピールのために、社長直々のお声掛かりで受賞記念パーティを開催したほどです。また東日本の駅舎を管理する施設電気部の大忘年会にも招かれましたが、現場の方々の喜びの声も大きかったことを思い出します。
そんなわけで、JR東日本では西日本と調整して、倉吉でのトイレシンポに東京から夜行の特別列車で行こうという話にのってくれました。倉吉市側では、シンポジウムを機会に倉吉駅のトイレ改善をJR西日本に持ちかけて進めることになり、トイレ列車を迎えてテープカットをするということになりました。残念ながら私はシンポジウムの準備のために先乗りしていたので、トイレ列車に乗ることはできませんでしたが、列車内では大いに盛り上がったと聞いております。
白壁づくりの町並みを背景にコンサートを開催したり、シンポジウムでは子どもたちのトイレ学習の成果発表があり、市民からも公民館のトイレや周りを自主的に清掃するようになった話があり、感動しました。
※「まちづくりにはトイレが大事」は、出版社が廃業したため絶版ですが、アマゾンなどで古書として手に入るようです。多くの図書館にも収蔵してもらっているようで、国会図書館の検索サービス(国立国会図書館サーチ)で検索するとお近くの図書館がわかります。
閑話休題-「天女の忘れもの」の話
倉吉の打吹山には天女伝説があり、トイレシンポジウムを機会に「天女の忘れもの」というお菓子ができました。ウンチを模したまんじゅうで、「運がつく」ということで受験生にも人気となり、一時は「鳥取銘菓」と言われるまでの名物になりましたが、ネットで調べると2007年1月に販売中止になったようです。
このお菓子にはびっくりするようなエピソードがあります。93年に西岡先生の傘寿のお祝い会が日本青年館で開かれました。そのときに高円宮様がご臨席になりました。堅苦しい会ではなく、アットホームなパーティだったので、差し入れで持ってきたくだんの「忘れもの」を宮様にお渡ししてしまったのです。西岡先生とご親交があるくらいですからユーモアセンスのある方で、その場ではお召し上がりにならず、「皇太子様と会う予定があるのでぜひお渡ししたい、たぶんよろこばれるだろう」とおっしゃったのです!横にいた西岡先生は慌てて、「この話は国家機密だから、くれぐれも口外せぬように」と言われて爆笑したことを思い出します。宮様も先生も亡くなられ、お菓子そのものもなくなってしまったので、機密解除してもよかろうと思って書き記しておきます。もしかしたら、今上天皇が皇太子時代に召し上がったかもしれません。ただしあまりあちこちで吹聴はしないようにお願いいたします(笑)
ググったら投稿がいっぱいありました。写真勝手にお借りしました。
全国トイレシンポジウムのテーマ
トイレシンポジウムはその後も脈々と続き、思い出せば毎回いろいろなエピソードが浮かぶのですが、とても紙幅が足りなくなるので以降はテーマの紹介にとどめたいと思います。
伊東市での第1回シンポジウムのテーマは「社会とトイレを考える-公共トイレを中心として」、第2回江戸川区は「トイレアメニティを目指して」、第3回横浜市は「トイレからのまちづくり」、第4回倉吉市は「トイレ文化と健康からのまちづくり」でした。
第5回の熊本市では、1988年に、将来に向けてデザインに配慮した建物やまちづくりを進めようという「アートポリス事業」(現在も都市づくりのコンセプトとして掲げられている)がスタートし、その一環として公共トイレ改革に取り組んでいました。そこでテーマは「21世紀へ向けてトイレ文化を考える」にしました。
第6回川之江市・伊予三島市(現・四国中央市)は製紙のまちなので「トイレと紙と環境」、第7回は金沢市・山中町(現・加賀市)・吉野谷村(現・白山市)で「旅と自然とトイレ」。吉野谷村は山村だからこそ水洗トイレを普及しようという政策を進めており、シンポジウムは一定の成果をアピールする場にもなりました。第8回東京都北区は「トイレの進化とこれからの課題」、第9回高崎市は「トイレの視点で地域ネットワークを考える」、第10回志摩郡5町(現・志摩市)「美しい水環境とトイレづくり」、第11回長崎県小浜町は「自然と人間にやさしいトイレづくり」と続きます。
シンポジウムがトイレ改革を推進した
10年くらいの間に公共トイレや駅のトイレは目に見えて改善され、デパートなどの商業施設のトイレが注目されるようになりました。こうした傾向は、トイレ改革、トイレ革命などと呼ばれるようになりましたが、当時はまだ黎明期なので、いろいろな課題がシンポジウムで出てきました。
障がい者や高齢者だけでなく、乳幼児や子連れの親もトイレの利用に困るということが話題になりました。トイレにおむつ台が設置される前は、木製のベビーベッドが置いてあるトイレもありました。すると、翌年のシンポジウムで折りたためるおむつ台や乳幼児を座らせるイス等の開発が報告されるなど、いろいろな製品が登場しました。
障がい者用トイレについても統一した規格がないので自治体がそれぞれ工夫し、その成果が共有されていきました。屋外の公共トイレにスペースの広いブースをつくると防犯上の問題が懸念されるということが議論され、障害者手帳を持つ人にカギを渡すとか、床に間欠的に水を流してブース内をねぐらにできないようにしようとか、管理者としての苦労には同情するものの、まったく感心できない方法を採用していたところもありました。それに対して車いす用のトイレではなく広く一般に利用できる多機能トイレとするアイデアが出てきました。たぶん子供用便器を併設した横浜市の元町・前田橋公衆トイレがその嚆矢だったと思います。設計や設備、メンテナンス、利用者のマナー啓発、防犯など、トイレが抱えるいろいろな問題を共有し、対応策をみんなで考える場として、全国トイレシンポジウムは大きな役割を果たしました。
自治体がトイレに注目し始めた背景には、80年代の後半から90年頃までのバブル景気があります。特に88年には竹下内閣が「ふるさと創生事業」という名目で、自治体の規模に関係なく交付税の不交付団体に1億円を配りました。金塊を買って展示したという、知恵のない自治体もありましたが、まさに地域のイメージアップ、ふるさと創生に貢献する事業として公共トイレに投資した自治体が出てきました。前回に書きましたが、「アメニティ」の時代といわれ、トイレの快適さもアメニティの要素という我々の主張を理解する自治体も増えてきました。「グッドトイレ10」に選ばれると全国版で報道されるようになったことも大きかったと思います。
バブル景気が3Kの代名詞であった公共トイレのレベルアップのきっかけとなり、シンポジウムでの議論を重ねる中で、豪華な建築物としてお金をかけたトイレではなく、文字通りトイレアメニティに配慮した方向に向かうようになりました。
国際交流はじまる-日仏トイレフォーラム
85年7月のジャパンタイムスに記事が掲載されたことがきっかけに、海外メディアからの取材や問い合わせがくるようになりました。英BBCや仏Antenne 2(アンテンドゥー)から取材を受け、韓国のメディアからは88年のソウルオリンピックに向けてテレビや新聞が取材にきました。Antenne 2の取材クルーに日仏のトイレ交流を持ちかけると、面白いということですぐに反応がありました。89年に「日仏トイレフォーラム」を開催することが決まり、「ヨーロッパトイレ事情調査団」としてフランス、スイス、オーストリアなどを巡りました。書架をひっくり返していたら、そのときのノートがでてきましたので、ちょっと紹介します。
ツアーの日程は89年5月17日から27日の11日間。最初の都市はミュンヘンでヒアリング、当時のメモによるとドイツでも公共トイレ整備を推進する運動があったが、一般の人はほとんど関心を示さなかった。ノイシュバンシュタイン城には50ペニヒの有料トイレがあった。チューリッヒからグリンデンワルドに行き、山をくりぬいた下水処理場とユングフラウヨッホの水洗トイレを見学し、ジュネーブでは大学でレマン湖の水質保全についてレクチャーを受けた。日仏トイレフォーラムはベルサイユ宮殿の離宮であるトリアノン宮殿の会議室で、パスツール研究所のドダン氏(Andre Dodin)やパリのオートマチックトイレのドコー社社長のドコー氏、パリ市清掃局の技師、吾妻橋のたもとにあるアサヒビール本社ビルをデザインしたスタルク氏など、錚々たるメンバーが集まって、日仏のトイレ文化の違いやお互いの政策、取り組みを報告し合いました。
小林純子さんや坂本菜子さんは、メジャーでトイレの寸法を測りまくっていたように記憶しています。楽しく、かつとても精力的にヨーロッパのトイレを見て回りました。このフォーラムをきっかけに「フランストイレ協会」が発足しましたが、会長であったドダン氏は飛行機事故で亡くなられたということを聞きました。ドダン氏はエイズの研究でノーベル賞クラスの研究者だったそうです。
97年に香港はイギリスから中国に返還されました。返還に向けた準備の一環なのでしょうか、89年頃に香港の地方政府から視察の申し込みがありました。当時の香港は、国の政府にあたる香港政庁と、地方自治体にあたる市政局( Urban Council)、区域市政局(Regional Council)があり、市政局の議員である梁定邦さんらが尋ねてこられました。観光地としての香港の魅力向上のために、トイレに力を入れたいということでした。イギリス本国が返還前にインフラ整備をしておくという背景があったようです。梁さんは銀行の理事長で外科医で議長で、(たぶん)お金持ちのひとです。
91年にわれわれは梁さんの招きに応じて、香港視察に行きました。あちこちのトイレを見に連れて行かれましたが、日本からトイレの専門家が来たということで、どこでも新聞やテレビが追いかけてきて、当日の夕方のニュースでは全部のチャンネルでわれわれのことが取り上げられました。驚いたのは視察のあとです。いきなり評議会の立派な議場に連れて行かれて、トイレについての審議が始まったのです。議題はこれからつくる公共トイレは洋式とするかしゃがみ式とするか等。香港のトイレの多くは日本同様にしゃがみ式でした。「今日は日本からトイレの専門家が来ている。アドバイスをいただきたい」ということで、「日本でも同じ議論があるが、ある程度は和式を残すという方向である」(当時の考え方)と回答(どなたが回答されたかは忘れました)。そんなふうにいろいろと意見を聞かれて審議に参加したという次第です。
神戸国際トイレシンポジウム
91年のある時、神戸市役所の住宅局から若い担当者が訪ねてきました。神戸でトイレシンポジウムが開催できないか、という趣旨でした。神戸では「アーバンリゾートフェア」という大規模なイベントが企画されており、トイレシンポジウムをその関連のイベントとして開催したいということでした。話の勢いで「国際会議をやったらどうか」と持ち掛けたところ、担当者は「うちの係長はそういう話が好きですねん」という。その係長はなんと私が神戸市役所に在籍していたときの同僚ということがわかり、話を持ち帰って相談するということになりました。これもバブル景気のおかけですね。信じられないことに、話はトントン拍子に進んで開催の費用を出してくれるというのです。
世界初のトイレの国際会議、トイレの展示会ということで、「コンベンションシティ」を掲げる神戸市の方針にうまくはまったということでしょう。大きい事業になったのは、助役さんが後押ししてくれたからでした。実は小川卓海助役は、私が神戸市役所時代の上司で、退職するときに慰留していただいた部長でした。シンポジウムの成功を喜んでくれましたが、阪神大震災の心労から自死されました。
風呂敷を広げているうちに、ヨーロッパに行って登壇者を誘致してこようという話になりました。招待状を携えた新屋係長とともに、92年に再びヨーロッパに出かけました。先駆けて坂本菜子さんらがドダン教授を訪問して調整していただき、パリのパスツール研究所でフランストイレ協会から30~40名くらいの参加者を集め、日本からは10数名のメンバーで第2回日仏トイレフォーラムを開催しました。驚いたのはアメリカ・コーネル大学のアレクサンダー・キラキラ教授(Alexander Kira)が来ているではありませんか。彼は「The Bathroom」というトイレとバスの人間工学の研究書を書いており、TOTO出版から翻訳が出ています。神戸の国際会議についての情報は伝わっていたと思いますが、突然パスツール研究所に現れたのはびっくりしました。神戸にはぜひ参加すると言っていただいたので、大いに弾みがつきました。
「神戸国際トイレシンポジウム’93」は、93年6月4日から6日まで、ポートアイランドにある神戸国際会議場で開催しました。3日から6日までは国際展示場で「見て、ふれて、語り合おうトイレ展」を開催し、一般の市民も大勢参加していただきました。国際会議の参加者は講師を含めて約500人、企業・業界関係者200人、自治体70人、公団等の公共セクター20人、大学20人、外国からは30人(オーストラリア、アメリカ、香港、タイ、ベルギー、韓国、台湾、フランス、中国)、その他一般市民などです。ドダン氏から世界の衛生問題とトイレについて基調講演をしていただき、都市アメニティとトイレ、メンテナンス、市民生活とトイレ文化など6つのセッションを開きました。前述のキラ氏のほかに、日本でも知られていた「トイレの文化史」の著者であるパリ国立建築大学名誉教授のロジェ・アンリ・ゲラン氏(Roger-Hen Guerrand)、タイやベルギーの研究者、香港の梁さん、国内からは西岡秀雄先生や高橋志保彦氏をはじめトイレ協会のオーソリティの面々に加えて、「裏側から見た都市」の著者で有名な川添登さんなど著名な方々にも登壇していただきました。交流会では西岡先生の音頭で全員が手をつないでアロハオエを歌いました。